Sight and View



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バタバタとして

まじめに取り組んでいるつもりのプリントも、かれこれ数日手つかずのまま。やはりバタバタと忙しく、気持ちを集中できる日が作れない。いちおう、日曜日の午前中に作業しようとだけ、週のあたまから考えていた。
ところが土曜日、夫婦でたまたま東京に来ていた父の具合が悪くなり、大田区にあるオレの自宅の近くの病院に担ぎ込まれたとの連絡。たまたま、早朝に出勤した板橋区の市場からすでに大田区の別の市場に移動していたところで、目と鼻の先である。目の前の仕事をひとまず片付けて病院に行くと、廊下のベンチに両親の姿。まずは安心。
なんでも、しばらく前から足首が痛く、数日前からは腹周りを中心にひどい筋肉痛のような状態だったという。今回も、そうとう辛い状態ながら東京に仕事の手伝いに来たらしい。体調を押して無理をするのは父の悪いところだが、いまさら変わる性格でもない。金曜の午後、埼玉から東京へのドライブも相当危なっかしかったと母は言う。結局、土曜日の朝にはもう身動きとれず、病院に連れて行かれて検査と点滴。土曜日は外来が無く救急のみの対応で、なおかつ朝一番だったため病院も暇で、念入りに検査してくれたらしい。父曰く点滴は素晴らしいとのことで、朝からの吐き気だけでなく、ずっと続いていた足の痛みも和らいだとご機嫌である。冗談じゃない。
ともかく父のセルシオに両親を乗せ、一路埼玉の実家へ。バタバタと荷物をまとめ、地元の病院へ入院である。しっかし、入院の手続きって、病院側からしたらなにかあったときに困るからだと理解はするが、面倒だし確認事項がしつっこくてかなわんね。
その時点ではすでに点滴の効果も切れ、椅子に座ったり立ったりもうめきながらの父である。人一倍体力があって気力も人後に落ちなず、10年前に心筋梗塞で倒れ手術を受け、それでようやく人並みの心臓になったとまで言われたのだが、さすがに老いたなぁと改めて思う。本人が、なによりヘコんでいた。なんでこんなことになったかなぁと言うので、太りすぎだと言ってやった。CTスキャンで、素人目にもわかる。
ま、趣味の家庭農業で張り切りすぎたんだろう。疲れたところに風邪を引いて、その上無理したせいの急性胃腸炎っていうところか。しばらくメシ抜き、点滴三昧の安静である。今は相当落ち込んでるが、治ればまたケロッとして、反省の色もなく畑仕事にせいを出すに違いない。そういう父だ。

かくして実家に一泊。昼過ぎに見舞いに行ったりして、夕方には東京に戻らねば。そういえば、父のセルシオで来てしまったからには、帰りは電車だ。仕事用のカバンを持ってきてしまったが・・・重い。意外と乗り換えの多い、そして駅からの距離も遠い我が家であった。

まだまだ

昨夜に続いてプリント作業。なるべく早く帰って始めようと思っていたのだが、自宅に戻ると1階のリビングでは別の部署が営業会議中。しょうがないので参加。もうあまり時間がとれない。1枚だけ作ろうと決めて現像液を準備するが、それも作り置いた原液を薄めるだけだし、他は万端整ったままというのがスロットプロセッサーの良さである。ネガだってイーゼルだって昨夜のままだ。
前回作ったプリントはすでに乾燥してあるので、ドライダウンの具合だけ軽く見てフラットニングにまわし、焼きこみパターンだけ頭に入れて露光開始。全面露光ののちに5パターン計6回の焼きこみを行う。
Snatch Pointを遅らせ気味にと意識して現像。ブリーチ前に軽くセレニウム調色する予定なので、たっぷり時間をかけて水洗することにして、水につけたまま寝てしまうことにする。

セレニウム調色については、アルカリ現像液からセレニウムトナーにダイレクトに入れるとムラが出にくいと、以前Per Volquartz氏に教わったのだが、逆にRyuji Suzuki氏はそれはダメだと仰る。そこで両方試した結果いまのところ、Suzuki氏のいうとおりしっかり水洗すべきと結論している。最悪なのは水洗が中途半端な場合で、まず確実にムラが出て全てがパーだ。

これの前につくったプリントのフラットニングが完了したので、スキャンしてAPUGに投稿してみる。おかげさまで好評なようだ。連中(英語者という意味)の表現はときに日本語にも勝るよさがあるナァと感じるのだけれど、こうした際に、"Thank you for posting" みたいな事を言ってくるのがけっこうグッと来る。日本語で言う「いいもの見せてもらいました」に似ているようで違うんだよな。
で、ふむふむ、自分で思うよりいい画だったんだな、と解釈したところで、少し前に投稿された他の方の作品を見てビックリ。
すっげ~!! こんなん出来るんかっ! 久しぶりにぶったまげた。説明されている工程(といってもBRDリスで薬品と印画紙の組み合わせの問題なんでしょうが)を試してみなくては。銀塩プリントは奥深いなぁ・・・まだまだやれることいっぱいあるわ、やっぱり。

プリントは自己中心的

昨日現像したネガを、いつものようにカールツアイス製5倍のルーペでチェックしてみたところ、非常に残念なことが判明した。良し悪しがかつてのようには分からないのである。視力が低下しているのだ(涙)。
そういえば、今年は中判しか使ってないしプリントしてないし、その前までもしばらくの間、135のネガで同カット数枚から選ぶケースが無かったので、ルーペで勝負、というパターンが久しぶりなのだ。
今回の撮影では、同一の構図・露出で複数枚撮ってあり、その中から表情を選ぼうとしていのだがしょうがない。プルーフでも作るかと諦めて、一番よさそうなカットをネガキャリアにセットする。殆んどのケースで135は2:3のフルフレームに、黒縁までつけるオレなのだが、今回は構図的な問題から5:7比にして無駄な空間をトリミングする。こういう時のためにとっておいてある印画紙の裏に定規で5x7インチを測って線を引き、それに合わせてイーゼルのブレードを調整してテープで固定。これが面倒くさい。出来ればプリントサイズごとにイーゼルを揃えたいと以前から思っている(そんな金無いが)。
引き伸ばしレンズは、買ったきり放置しておいたELニッコールの63ミリ。タイマーのスイッチをFOCUSにすると、あら、さっぱり結像しない。50ミリと同じで、LPL7454ではレンズボードを裏返して窪み側を使わないといけなかったらしい。これだけでもう、後の操作が面倒になるので、やっぱり135も75ミリ以上のレンズを使おうかと考えてしまう。ニッコール63ミリ、評価の高いレンズだし中古でも高かったんだけどな。レンズ売ってイーゼル買おうかな。
フィルターを3号にしてサクッとストレートプリント・・・は軟調すぎた。f5.6、4号で22秒。とりあえず引き伸ばしてみて、全体が分かるようにするのが目的。わりかしテキトーである。候補に挙げておいた同様のカットを同じ露光時間でプリントし、じっくり比較するまでも無く最初のものに決定。なんだ、ルーペで判断できた以上のことはわからないんじゃん。

ここまででいくらか時間が掛かってしまったが、夕飯は食べないことにして作業続行。焼きこんで少し締めていってみる。
う~ん、ダメだナァ・・・。これではlifelessと評されても致し方ないだろう感じ。当然オレもまったく納得いかない。無難な光線状態を選んだことが裏目に出たというところか・・・。

しばし考える。
撮影についても、記録しておきたい(だろう)という先方の都合を勝手に考えたがために要らぬプレッシャーを感じ、結果ずるずると撮影を先延ばししてしまったのだった。光線状態にしてもそうである。そのうえプリントまで無難なトーンにまとめようとしてては、なにもオレが撮ることなかったわけだ。
いかんいかん。オレは写真趣味家であり、創作系プリンター(今作った造語)のつもりなのだから、自分のイメージをなにより優先して、自分らしいプリントにすればいいのだ。そもそも、なんならIRで撮ろうかと考えたこともあったカットである。となればやっぱりリスプリントだろう。詳細なディテールを記録する必要なんかないのだ。イメージはイメージであり、記憶もまた然り。物的ディテールが写真だとは限らない。

というわけで、先日調合したKLD-1B、1:7希釈。処方をこの印画紙に合わせたつもりのFortezo Museum。ワークプリントを2枚作った。
Ilford MG4RCでのプルーフに加え、1枚目のワークプリントで画面上部を焼きこむべきことが分かったのだが、その加減が通常のプリントと違って読みにくい。2枚目も焼きこみが足らず、現像開始後10分を過ぎてダメな事が判明(この辺がリスプリントだなぁ)。
そこで、画面の上部だけ現像を押してみちゃどうだ、と思いついた。あぁ、オレって天才。リスは使用現像液の疲弊が早いため、印画紙をトレイから取り出してしまうと現像の進行が止まる。そこで、印画紙をつまんでぶら下げて、現像を押したい部分だけ現像液に漬けて攪拌を続けちゃどうだ?
という作戦。これは正解であった。他が止まったまま、押したいところだけ押せることが判明。もっとも、どのみち露光不足のため延々現像し続ける羽目になり、かぶりが多くてモノにはならなかったけど。都合30分くらい黙々やってた。

よし、これでプリントのイメージもだいたい固まった。

ひさしぶりに撮影

日曜日。愛機 Canon New F-1 と20mmレンズ、露出計とKodak Tri-X PANをカバンに詰め、数ヶ月前に写真を撮らせていただく約束をした花屋さんに出かけた。一度Rolleiでロケハン程度に撮らせてはもらっていたが、どうにもイメージが固まらず、何ヶ月も経ってしまったのである。とはいえ、最初から思い描いていた画はあって、それでいいかどうかだけずっと悩んでいた。
自分が撮りたいというだけでなく、撮っておいてあげたいという気持ちがなにより強く、それがプレッシャーになっていたらしい。しかしいつまでも放っておくことも出来ない、タイムリミットのある撮影対象だ。ずっと考え続け、やはりこれの他にはないと決めたのは、かなりの広角で見下ろす構図。脚立を車に積んで首都高速を行く。
脚立を使ったりして見下ろして撮ると、問題になるのが自分の影である。太陽を背にしてはいけない。しかしフレアの出やすい超広角レンズでは逆光もいけない。日差しの角度と光量を考えて午後の時間帯、フィルム1本だけ撮らせてもらった。

一時は中判で撮る事を考えていたのだが、モノクロ写真的には、なめらかさよりも粒状感が合う人だなと思ってのTri-X。かといってRodinal静止現像ではやり過ぎになる。Pyrocat-MC 1:1:100で最小攪拌法。先ほど、あがりをルーペでチェックしてみたが、すでに酔っぱらっているので目が霞んで良くわからない。最近ちょっとだけ飲まないとよく眠れないのだが、今日は飲み過ぎた。もともと酒には弱い。今夜はここまでにして、明日にでも少しプリントしてみよう。

感情の起伏は押しつぶされることなく

Moonridersの楽曲「犬の帰宅」には、サビの部分に「感情の起伏は愛に押しつぶされる」というフレーズがあって、もうずいぶん前だけれど、初めて聴いたときにはその秀逸さに震えるほどであった。そして今でも大好きな曲であり、聞くたびに、言葉遣いの巧みさに驚嘆するのである。Moonridersには、それほどまでに優れた歌詞、歌詞という枠でなくとも、まさに言霊が授けたかと思うほどの短いフレーズが数多ある。
今一番のお気に入りは、「恋人が眠ったあとに謳う歌」の歌いだしのひと言。いわく、「バスタブで待ちぼうけ」、である。
そのあと「流れるのは熱い汗」と続くのだけれど、最初の「バスタブで待ちぼうけ」だけで、どれほどの情景と心情とが浮かび上がり、そして的確に聞く者に伝わることか。こんな言葉がこの世に有ったのかっ、などと大げさに思うほど、このフレーズは図抜けて凄い。
もちろん、「バスタブで待ちぼうけ」る、という状況がどのようなものか、相手との関係、直前の出来事、今の心境からなにから、すべては聞く者の想像によらなくてはならないはずなのだ。しかし、これほどに少ない言葉、少ないヒントながら、それはちゃんと伝わるに違いないのである。そして男なら、たぶん女性も同じだろうと思うけど、「バスタブで待ちぼうけ」る気持ちが理解できるはずなのだ。最初のこのひとフレーズで共感できるはずなのである(そ~でもない?)。
そしてついでに言うと、ボクが、かなりマジで、モノクロ写真の理想だと思っているがこの、「バスタブで待ちぼうけ」なのだ。こんな写真が作れたら凄いよな。

正直、この曲が収められているアルバム「月面讃歌」は好きではなかった。というより、発売当時は一度聞いてビックリして、おいおい、Moonridersはいったいどうしちまったんだと、ため息をついて仕舞い込み、その後数年放っておいたのである。おそらく曲調のポップさやなにやら、Moonridersの新譜が出る!と興奮していたボクの求めているものとちょっと違ったんだろうと思う。しかしこのアルバム、しばらくして聞きなおしてからはすっかりハマり、今ではMoonridersの全アルバムの中でももっとも頻繁に聞いている。「ボクは幸せだった」のような超絶凄い楽曲が入っているのに、戸棚で埃を被らせていたのが理解できない。
いずれにしても、Moonridersのアルバムはなぜかボクの場合、発売されてすぐではなく、何年かたってから、あるいは20回、30回と聴いてようやく、お気に入りリストの上位に上ってくる。その前のアルバム、あるいはその前の前のアルバムを当初、お気に入り度合いでなかなか超えないにもかかわらず、やがていつかは越えてしまうのである。

さて、なぜだろう、と、先日考えた。
その昔、初めてMoonridersを聞いたとき、ボクはまだ子供だった(義務教育期間中は子供である)。出たばかりの「青空百景」は物語も歌詞も子供には難しく、それを書くにいたる心情など経験してないから理解は出来ない。小洒落た日本語を操るオニイサンたちはただただかっこよくて、要するに憧れたのだった。それからだんだん、大人になってあれやこれやの経験を経るごとにボクは、数年前、あるいは十数年前のMoonridersを理解できるようになる。
それはつまり、常に、多くの部分で、小洒落た日本語を操るオジサンたちに追いつくことは無く、ただただ憧れるしかないのだ。Moonridersはいつだってボクの数年、十数年先の気持ちを歌っている。「月面讃歌」のときは、たぶんボクが、根拠の無い自信や知ったかぶりの生意気な心境で、実際には追いつくどころかオジサンたちに引き離されていたに違いない。

それはともかく、いったいどうした閃きがあったら、あるいはどんな啓示があったら、「バスタブで待ちぼうけ」なんてフレーズで書き始められるのだろうか? 凡人のボクには、それはやっぱりごくごく単純に、実際に「バスタブで待ちぼうけ」た、そのときに浮かんできたアイデアとしか思えない。出来ればそうであって欲しい。もしそうじゃなかったら、それはもう鬼神の仕業であって、もはや追いつく追いつかないではなく、参考にもならない。
逆にもし単純にそうしたことなら、写真もまた、「バスタブで待ちぼうけ」たりしたときに優れたアイデアが浮かび、それを物にできれば傑作が生まれるはずだ。

さて、冒頭で引用した「感情の起伏は愛に押しつぶされる」だが、アルバム「最後の晩餐」に収められたこの曲は、月並みな言葉で言えば「父=夫」の悲哀なので、未婚で子供も無いボクは実際には具体的な体験ができない。体験はできないが、察するだけで共感でき、ううむと唸ってしまう説得力にひれ伏すしかないわけだ。感情の起伏を押しつぶすほどの「愛」とやらの重さを想い、押しつぶされることを選択した決断の重さに思わず唸るのである。あの頃この曲を聴いてなかったら、あるいはボクも結婚してたかもしれない、などと言い出すと被害妄想気味だが、思い返すとちょうどそういうアレコレがあった時期だった気もする。もっとも、それ以前からMoonridersのオジサンたちは、「自由を着て愛を脱ぎ」だとか、「お前は幸せか、それとも自由か」などと歌ってボクを洗脳してきていたのだけれど(笑)。

かくしてボクは、結果論ではあるけれど感情の起伏が押しつぶされることを拒み、拒み続け、そして今も、今のこの感情の起伏を押しつぶす何かを持っていない。押しつぶすという表現が攻撃的で違和感もあろうが、言い換えればこれは、世話好きのオバチャンが言いそうな「あんたも早く落ち着いてくれないとねぇ」というアレ。「落ち着いて」とは「感情の起伏が押しつぶされた」状態に他ならない。たとえその自覚が無くてもね。
ところがこうやって、「押しつぶされる」などと挑発的な言葉を繰り出しながら、誰もが「押しつぶしてくれる何か=落ち着かせてくれる何か」を求めている、というところがミソなのだな。そしてそうした感情の起伏や葛藤がなかったら、写真なんて撮れないんだと思う。感情の起伏があるからこそ何かを生み出せるはずだ。
言い直そう、そうであって欲しい。でなかったら、なにを頼りに、この苦しみや悲しみ、切なさやるせなさに耐えればいいのか、さっぱりわからないではないか。喜びや興奮、感動や感激がなくて、どうしてシャッターを切れるというのか。

ま、もちろん、無理無理に写真に結びつけなくてもいいわけだが、ね(そ〜言っては身も蓋もない)。

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